2017/02/27

「謙虚な人にならなければ!」と思っていたのは、人から「あいつは傲慢で何もできない奴!」と責められるのが怖かったから(謙虚は、自分をえらいものと思わないで、素直に学ぶ気持ちがある姿)。

 

”心”にお願いして「あの人から嫌われているかも?」という不安な気持ちを母親に返してもらったら「傲慢で何もできない奴!」と思われることをなんで私はあんなに恐れていたのだろう?とおかしくなってきます。

 

謙虚さも傲慢さも私にとっては両方とも演じるモノ、演じさせられるものであって、私自身ではありません。

 

持っているものすべて奪われて、どん底に落とされることを恐れて謙虚さを演じてきました。

でも、謙虚さを演じたって、人からの評価を求めた時は「嘘つき!」や「偽善者!」呼ばわりされて、これまで築き上げてきたものをぶち壊され、そしてどん底に落とされます。

 

ある意味”嘘つき”や”偽善者”というのは合っているのかもしれません。

だって、責められないように演じていて、それが本来の私ではないのですから。

 

ここで人は「人から糾弾されることで謙虚さを演じる自分から解放されたのだから、それに意味があったのでは?」と意味づけをしたくなります。

「あなたが本当の自分で生きるために、用意された人なのでは?」と勝手な解釈をします。

 

「目の前にある苦しみは必ず益になるものに変えてくださる」と信じたくなるんですよね(益になる=ためになる)。

 

ここで面白いのが”心よ!”って聞いてみると「そんなのない!」とすぐさま却下されます。

 

「目の前に起きていることについて解釈する必要はない!」と言われてしまいます。

 

”心よ!”何で解釈する必要が無いの?と聞いてみます。

 

次の瞬間に私の中にイメージが展開されます。

 

「あなたを助けるために今の苦しみがある」という解釈のバックグラウンドには”大いなる力”の存在が仮定としてあります。

人によっては解釈が違いますが、神のような存在となります。

 

その神がしていることを自分が解釈する、ということは”神のしていることを理解する”ということになります。

「神がしていることを理解する」ってどれだけ万能感なの〜!となって楽しくなってきます。

 

でも、これ結構してたよね!私!あはは〜!

 

目の前に起きた”不幸”な事象に対して勝手に自分で解釈してしまいます。

他人のことでもすぐに解釈したがります。

 

万能感に乗っ取られているから、”神”を演じて、神がしていることを解釈し、そしてダメ出しをします。

 

今、目の前にある不幸は私を正しい方向に導いてくれるためのものなんだ!と解釈すれば「正しい方向に進まなければ不幸になる」という恐怖が付きまといます。

すると必然的に私は”正しい方向”を自ら模索しなければなりません。

 

すると「何が正しくて、何が間違っている!」という観念で生きることになります。

そして正しい、間違っているの評価を人の中に求めてしまうと、また同じことの繰り返し。

 

「嘘つき!」や「偽善者!」という人からの批判に怯える振り出しに戻ってきてしまいます。

 

だから”心”が「解釈は必要ない!」って言ったんだな、ということが初めて自分の中で腑に落ちます。

 

「解釈したら不幸になる!」とか「解釈したら駄目!」でもなくて、ただ同じところをぐるぐる回ってしまうだけ。

 

”万能感”で神を演じ、その”神的な力”で不幸な現実を作り出してしまい、そこから抜け出せなくなるだけ。

 

でも、逆に考えてみると、この”万能感”から解放されることで、無限の可能性が見えてくる予感。

 

心よ!「万能感から解放されると、たくさんの可能性が見えてくるの?」と聞いてみます。

 

すると「そんなのも必要ない!」と言われてしまいます。

 

そうか!”無限の可能性”と”無限”という言葉を使っている事態が”万能感”か!

 

心に確認しないとこんなことわからない。

 

心に聞いて、その万能感から解放されていくたびに、私の中で”無”の静けさがどんどん広がっていきます。

 

その”無”の中で何とも言えない安心感が私の中にあるんです。

 

 

 

 


2017/03/23


著書のご紹介

新着記事

カレンダー

<< March 2017 >>
SunMonTueWedThuFriSat
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 

アーカイブ

プロフィール

検索

mobile

qrcode

others

PR