2017/02/21

「人の気持ちを考えちゃうから苦しい!」という悩みを人に話したら「そんなの考えなきゃいいじゃない!」と簡単に言われてしまいます。

でも「不機嫌な人、辛そうな人のことを見たら自動的に考えちゃうんです!」と訴えたら「見なきゃいいじゃん!」と笑われます。

見ないようにしても、その時はいいのですが、フッと気を抜いた瞬間に「また視界に入っちゃった!」と目に入った人のことが頭に焼き付いてしまって、その人のことをぐるぐる考えてしまいます。

 

特に頭にストレスが帯電している「ビビビ!」系の人の目なんか見ちゃったら、私の脳で「ビビビ!」の発作が起きちゃうから、一気に怯える小鹿のようになって、目が泳いでしまって「怯えちゃう〜!」になります。

その怯えを打ち消すために相手の気持ちをぐるぐると考えてしまいます。

 

なぜそれが苦しいのか?

どうして苦しいのに止められないのか?

 

様々な原因を自分で考えますが「これかも!」と思う原因を見つけて自分で納得しても苦しみは楽になりません。

 

「なんで?」と別の原因を考えて「こっちでしょ!」と思って、うれしくなってちょっとは苦しみが治まるような感じがあるのです。が、またすぐに人の気持ちを同じように考えて苦しくなってしまいます。

 

でも、心に聞いた時に「なるほど!」とこれまでと違った感覚になります。

 

心が導いてくれて教えてくれた答え。

この私が感じていた”苦しみ”って「本来の自分じゃない自分になっている苦しみなんだ!」ってこと。

 

私は「他人を暗闇の人生から救う!」という”神的”な思考に憑りつかれていることが”不快”で「苦しい!」って感じていたんだ、ということがわかりました。

 

人の苦しみを見て、自動的に「救わなきゃ!」思ってしまう”万能感”に本来の自分が封じ込められてしまっていることが”不快!”だったんです。

 

だから、周りから理解されなかったんだ!とここでわかります。

 

周りからすれば「他人の人生が相手を見ただけでわかっちゃうんだったら凄いじゃない!」とその”万能感”が醸し出す甘美な匂いに焦がれます(焦がれるは=切に思い望むこと。子供の頃「超能力が欲しい!」と思ったような感覚)。

 

他人から「それっていいじゃない!」と言われて、私は「こんな迷惑な能力いらない!」となるのですが、心のどこかで「これがもし本当に能力だったら捨てるのが惜しいような気もする」と複雑な気持ちになります。

 

複雑な気持ちになりながらもやっぱり苦しいから「いらない!」ってなるんです。

 

これまでのパターンで「苦しい!」というときに、”心”に私は切に聞いていました(無意識で)。

そのたびに、心に私の進路を修正してもらっていたんです。

だったら、こころが苦しみを与えて「そっちは間違った方向に進んでいるよ!駄目だよ!」と教えてくれているの?ということになります。

 

でも、今回、心に聞いていてはっきりわかったんです。

心が私に苦しみを与えているのではなくて、本来の自分で生きられないことが最大の苦しみなんだ、ということを。

 

私にとっては「他人の人生のことを考えながら生きる」という”万能感”は、私自身のものではありませんでした。

でも「人を救わなければ」という”万能感”に乗っ取られていたので、その感覚からずっと逃れることができずにいました。

 

そして苦しんでいるときに”心”に始めて尋ねることができます。

「これって私の感覚なの?」って。

 

そして「自分のものではない!」ということを教えてもらったときに、”万能感”から解放されて”自由”になるんです。

 

苦しみは、本来の自分で生きられなくなったときに感じる感覚、と考えるとものすごく興味深くなります。

 

「この苦しみを何とかしなければ!」と自分で何とか処理しようとしてしまっていた状態こそ”万能感”になっていたんですね。

 

自分の”心”に頼る、ということが万能感からすでに解放された状態。

 

自分の力で何とかする、から解放されて”心”に聞いて委ねてみると確かに私は自由を感じていったんです。

 

 

 

 

 


2017/03/23


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